ずっと公開を心待ちにしていた藤野知明の監督作『どうすればよかったか』を、12/7、公開日に観に行きました。
家で起きたことを25年間撮り続ける
成績優秀で絵も上手だった姉に統合失調症の症状が出るも、両親はその現実を見つめたがらず、医療につながることを拒否し、姉を南京錠のついた部屋に閉じ込めました。その様子を25年にわたって、弟の藤野監督はカメラに納め続けます。
結局、母親が亡くなり、父親に認知症の症状が出るまで、姉は医療機関につながることはありませんでした。姉は末期癌にかかり、「最期は思うようにやらせてあげようと」旅行や好きだった占いや宝くじに触れている最期のシーンでは、お姉さんはとてもチャーミングな姿を取り戻していきます。
そのことが、喜ばしくも、つらくもあります。もし、もう少し医療に繋がるのが早ければ…と思ってしまう。また、姉が亡くなった時に、棺桶に父が論文を入れるのですが(父のものか姉のものがごめんなさい、見逃してしまった)、「天国でも勉強してね」という父の言葉が私にはとても苦しく聞こえました。その論文は姉の亡骸の首元に置かれていて、本当に息苦しく象徴的に見えたから。弟である藤野監督の「(勉強)したかったらね。」という優しい声もまた、いたたまれない。25年間、何かを変えられたらと思いながら、優しい声をかけ続け、カメラを片手に見守り続けたその、底のところにある覚悟を、私は心からすごいと思った。
父は医者、母は研究者。理知的な両親と思われる環境で、現実が全く認識されない。知性ってなんだろうと思います。強さって、賢さってなんなんだろうと思いました。一見厳密に現実を見つめる仕事をしているように思える人たちが、姉の不調だけは絶対に認められない。人間は愚かですね。
姉も両親の影響で医者を目指していたといいますが、国家試験を前に精神のバランスを崩したといいます。姉が統合失調症になった理由は明示されないし、その原因を探るための映画でもないと映画の中では伝えられます。ただ、「どうすればよかったか?」という記録そのものが映し出されます。
"失敗"を見つめること
藤野監督は、インタビューで「我が家は失敗例」と言い切っています。
「我が家は間違いなく失敗例」 統合失調症の姉を巡る記録映画が公開(毎日新聞) - Yahoo!ニュース
言い切るのはすごいことです。敗北です。敗北を認めるのは私は一番賢いことだと思います。個人的な私の今のスタンスですが、人はみんな現実みたいなものとかいたたまれなさにちゃんと敗北して、その無力さを分かち合って、現状を少しでも変えようとしたり、祈った方が良いのではと思っているのです。
全能感は嘘で、無力感をちゃんと見つめて、認めたくないものをちゃんと見ることが強さだと思うから。その意味で私はこの映画はすごく強い映画だと思いました。
敗北と傷と痛みと、できなかったこと、足りなかったこと、後悔を飲み込むことは、とても苦しいと思います。
話の通じない両親に対して、姉のことを相談し冷静かつ理知的な態度で現状を変えようとします。姉にかける優しい言葉、その声色が、絶望ばかりが映し出される映像の中で、光や希望のように感じられます。藤野監督の慈愛が劇中から伝わってくる。やわらいこと、優しいこと、後悔すること、折れること、痛い部分をずっと見つめること。私はそういうもののほうが、勇気とか逞しさだなと思います。こういうものを外に出してくれて、ありがとうと思いました。
映画を見て私が今語りたいこと
ここからは、自分の話をします。もちろん独りよがりになります。私の話と、私の見たものと、私の心の中の話をします。映画の感想にかこつけて、いつもしている自分が可哀想だって話をしたいと思います。でも、語らなきゃいけない気がするから話します。自分が体験したことや、自分の絶望や、自分の違和感や、自分の心の底がモヤモヤするものはちゃんと外側に出さなきゃいけないと思うから。そういうオペみたいなものが、この映画だったと思うから、私も私の家の中のことを話します。文体が変わります。
"あったこと"は"あったこと"
この映画を見に行ったのは、私の母が統失で9年前に自死したからだ。私が19歳、母が49歳の時だった。母の様子がおかしくなってから1年くらい後のことだ。映画を見て、家の中に全ての基準が狂ってしまった人がいる様子が、映像を通じて外界に出てくるのを見た。「そう!これ!」私が見たものと近いものがここにある、と、驚いた。メディアの力はすごいと思った。大学とか大学院でそういうものに触れてきたことを心から良かったと思った。
なんか、人を、信じられるかも、と思いなおした。わかりあえるかも、と思った。私はそれほど真面目な学生ではなかったけど、大学院を出てから人ってこんなに、「ある」ものを「ない」ことにしてたり、話が噛み合わなかったり、日々の生活の中であまり面倒なことはぐるぐる考えずに生きているのかと思って驚いて寂しくなった。一人一人にいたたまれない死だとか、納得できないこととかがあって、みんなそれを飲み込んで大人になって、みんな抱えててて、私1人が自分に重大なことが起きたと騒ぎ立てて、社会の中で何かに参加しなくていい特別な理由にして、ずっと暴れているだけかと思って、びっくりしました。みんなそれぞれの地獄があるとして、みんなそんなもんだから、ってずっと黙ってたんですか?飲み込めましたか?全然飲み込めません。納得するまでやりたいです。納得なんてできないんですけど、納得できないということを納得するまではやめたくないなと思う。
無かったことにしないでもらえますか?
みなさんの中にもそういう傷があるなら出し合いませんか?
でも、映画に出てきた医師や研究者の両親(多分私よりも頭も良いし優秀だ)すらもまなざせなかったものに私はずっと向き合っているわけで、だからそれはもしかしたらものすごくヘヴィーな力があることで、私はずっとヘヴィーなことをしているのかもしれない。今日くらいは自分を褒めても良いですよね。止まらないんだよな、「どうすればよかったか?」が。だから、私以外にもそういう人がいた、そしてその人は25年もそれを見つめて、世に出した。そのことが、救われない話に、救われたりもした。それは祈りだから。
個人的な事情とか家族の事情みたいなものが配慮されない世界の中で(不思議だ!)、ありきたりな表現だけどみんな仮面をかぶっていて大事な話が届かない気がする中で、あ、他人だし、全く別の経験をしているんだけど、映像を通じて、境界を超えて「やっぱり私たちがこういう想いをするのは変だったよね!」という気持ちが、湧き出してきて、話が通じた気がした。それだけでホッとした。異次元みたいな時間があった。家で奇声を上げたり、急に被害妄想をつくりあげたり、そういうことが、あったよね、と思うんだ。
"いたたまれなさ"の中にいること
私が、何年も答えのないことで悩んでいたのは、私が暇だったからなのか、と少し自信がなくなる。動けなかったのは、私がただ幼くて、外に出るのを怖がってただけなのか、私の留まってた時間は意味ないのか?と、思う。
だけど、藤野監督が静かに、覚悟もを持って、腰を据えて、長い期間回し続けたカメラを通して、映し出される25年越しの、抵抗みたいなものが、じんわりと広がっていく。深い愛情、悔しさや、胆力、知性。私の9年越しの何かもすこし和らいで、いたたまれなさを共有し合う。
この数年、私の世界からまなざすと、家族や家族の周りの人が、「辛いことやどうしようもないことは誰の人生にも起きるから、ひとつひとつ重大なこととせず、忘れて振り返らずに前向きに生きましょう」というモードに見えた。
私を置いて、嘘をつきながら先に行ってしまった気がしていた。私は好き好んで絶望にいるわけでもなく、「まだ終わってない宿題がある気がする」という自分の心の中の掃除できていない場所がずっとずっと気になっているのだ。
それは、その掃除を終えて、本当の意味で幸せになりたいということであり、私にとっては後ろ向きのことではない。受験勉強をある程度頑張った人ならわかると思うけど、苦手な単元とか苦手な問題とか苦手な単語をちゃんと放置せずにやった人は、ちゃんと成績が上がると思う。あと、私はみんなで大掃除する時に、最初に排水溝に手をつけるような人が好きなんだけど、そういう、汚れている場所とか、向き合いたくないところとかをちゃんとまなざすことは本当に大事だと思うのだ。磨きあげたい、同じことを繰り返したくない。"どうすればよかった"んでしょうか?
9年経っても私の中では全然終わってない。東大の院に行っても、就職をふいにしても、スナックに立っていろんな人の過去や悩みを聞き続けて、ラブのリベロになろうとしてもうまくいかない。私だけ時間が先に進まない気がした。被害者ぶりたいわけでもなく、私は時間が進むことを望んでおらず、明日も明後日もずっと変わりなく、美味しいご飯を大事な人たちと食べて、その繰り返しでいいな、ということをいつも思ってしまう。平穏を求めている。変わりたくない気がした。書き続けることくらいしか、変わらずにいる方法はないんじゃないかと思う。自分がいちばん好きな自分のまま、死ぬまで同じ繰り返しで、大事な人たちが生きててくれたらいいのにな、と思ったりする。何も起こらなければいいのに。
20代のほとんどは、誰かがいたたまれない状況になった時に、人はどこまで愛を貫けるのかとか死なずに済むのかとか、なんで母はおかしくなったのかとか、行政はなんとかしてくれないのかとか、私はそういう時に大事な人を守れるのかなとかそういうことを考えていて、それをどうやったら自分は実践できるのかをいつも考えていた。社会人になる年齢になってから調子を崩す友人が増えたことも私の心を削った。他人のことなんだけど。
大事な人のこと、忘れないでもらえます?
大事な人が壊れた時に私はどうしたらいいんだろうということを、私はこれからもずっと問い続けると思う。
でも、それは私が好きでやっていることだから、「わざわざそんなことは見なくてもいい」というスタイルもあるわけで、私が好き好んで取り残されて、辛い場所にいようとしているようにも見えるのだと思う。ただ、痛みと違和感に誠実でありたいだけなのに。私はいつも私の尊厳と母の尊厳の話をしているのに。人の尊厳の話をしてるのに。
父親が再婚(事実婚)して、テレビ『家ついて行ってイイですか?』に出ていて、「還暦で真実の愛を取り戻したラブラブカップル」ということで取材されていた。事前になんの報告もなく、もちろん母はサラッと病死して、不登校で引きこもりの弟のことも、大学院出て吹き溜まっている私のこともまるでなかったかのように、フェイクの幸せで塗り固めているように見えた。嘘をついている。やるべきことが終わっていないのに、ずっと嘘をついている。
大事なことは何も決めてくれないので、全く楽しくない。私は全てを終わらせて祝福したいのに、我が家の苗字の墓で眠る母をこの先どうするのかを決めてくれないし、母の実家に再婚の旨を報告して欲しいと言ったのに、なんかゴニョゴニョやって適当に話して、しっかりはっきり伝えてこない。ずっと逃げ惑っている。私はフェイクが嫌いだ。友達全員に「あなたの方が強いからもうやめろ」と言われているが、母が父と結婚したことに対してオトシマエをつけて欲しいと思っている。漢気がないな、消えろ、と思っている。覚悟のない人間は私の人生には必要ではないからだ。ないならないで、ないと言えばいいのに、そのことすら言わない、逃げのムーブに虫唾が走る。私が気に入らないのはただ一点「もう母の死は見つめる必要は自分にはないから、巻き込むな」と言われたことである。書きながら思ったが、痛みに対するキャパがない人を無理やりトラウマ記憶に結びつけるのは身内だろうが、父だろうがやってはいけないんだろうな、と思う。わかりました。この件は私が引き受けましょう。ダサいな。
本当さと、絶望の話
あったことを無かったことにして記憶を幽閉することは、フェイクだと思う。生きていても死んでいても変わらない。亡くなった母のことを南京錠の部屋に閉じ込めているような状態に思えた。こういうちょっと上手いことをかこうとすると、自己憐憫的だとか自己陶酔的だとか、文学部ごっこだとか、揶揄をされるのだろうなと思う。物語的だとか。でも、自分の心の底のが全く納得してない、その実感だけがあり、その実感がある以上、私は黙ったり、耐えたり、考えたり、書いたりしながら、そこに向き合いたいと思っている。
絶望に対して──人それぞれ絶望がある、と言う言い方は嫌い。あるとして、だから黙っている、塞いで大人のふりをすることが大人だと思わない。絶望に対してほんの少しでも反撃していないと、人生が圧迫されていくから──私は何か少しでも世界のありようを変化させたいと思っていて、少しでも変化する側に身を置いていると、私はこれほどグチグチ過去のことを書いている人とは思えないほど晴れやかな顔をしている。
好きな人と話すことだとか、好きな本を読むことだとか、それから料理!命を紡ぐことだから。今夜はこれから唐揚げを揚げようか迷っている。唐揚げを揚げてる時は、楽しい。生きることは創造性と喜びに満ちているとすら思う。
母は私の人生に重荷を背負わせたから、憎むことはあるんだけど、なんとなく覚えている唐揚げの味付けに、私は母が生きていたことを感じたりする。いつだって死者も過去も痛みも、生きることのすぐそばにあるのに、なんでみんな忘れちゃうんだ、と思う。忘れないで欲しいなと思うことばかりだ。映画の中でも、お姉さんの好きだった星占いの本や、お姉さんが幼い頃作った工作などを愛おしそうに紹介する、弟の藤野さんが印象的だった。
大事な人、一人一人の人生そのものに寄り添えたらいいのに。最近はちゃんと仕事をしているけど、本当はもっとじっとりしたことがやりたいなと思っている。愛しさとか慈しみとか、その人そのものが見てきたものとか、重いものが好きだ。ちょっと好きすぎるかも知れない。怖かったら逃げてね。
「個人的なことは政治的なことである」
そこに大きな穴とか、失望とか、絶望があるのに、それを見つめずに仕切り直しをしたフリをすると言うのは、全く間違っていると思う。賢さでも強さでもないと思っている。
私が母や家族のことで、SNSに不穏な投稿をしたりするのは、ある種の危うさを孕んでいることも承知している。私の将来のキャリア(みたいなものがあるのだとして)に影響するとか、本当に幼いとか、家族に迷惑がかかるとか、そもそもスタイリッシュではない(こう見えて私はモデルの山口小夜子みたいなシュッとした口数が少なくて繊細で耽美な人に憧れがあるから)のもわかっている。
もう少し整理して話した方がいいとか、大学院出たなら慎重かつ、第三者的な視点で、整理された文章を書けというのも、おっしゃる通りですね、としか言いようがない。抑えきれない感情は、欲望の丸出しであって、美しくないこともわかっている。
ただ、身内のことや、家で起きたことや、ある種のタブーめいたことを全て書くのは、確信犯でやっている。様子がおかしいわけでもなくて、藤野監督の覚悟には遠く及ばないまでも、家の中であったことや、至らなかったこと、私の中にあるわだかまりみたいなものを外に出すことに対して、覚悟を決めていて、もう開き直っている。「個人的なことは、政治的なこと」は第二波フェミニズムのスローガンだった。フェミニズムというと、何やら口うるさそうというイメージばかりがクローズアップされるが、私は最近、フェミニズムというものが志向しているのは、バツの悪いことには蓋をするような嘘の強さとか、嘘の全能感に対して、ちゃんと綻びや弱さを指摘することなんじゃないかと思っている。家庭/社会、男性/女性、老人と子供と障害者とか、ほんとうに存在している全体のことを考えようとする営み、ほんとうの強さとか賢さみたいなものをもう一度見なおそうとすることなんじゃないかと思う。
最近の我が家の関係っていわゆる「父殺し」が終わった感じなのだと思うんだけど。私の身内の父親とかじゃなくて、藤野家で起きたこと、藤野家でなぜ精神病が隠されたのか、なんで家庭が閉鎖空間になってしまうのか、こういうことを本当はちゃんと考えて改善したい。そう思って大学院に行ったのになんかずっとおかしくなっていて、この映画のおかげで、ようやく正気を取り戻した。なんとかしたいな。変えたいな。私は嘘つきが嫌い。
なのに、私がTwitterで家族のことを書いていると、父親に伝えてくる知り合いとかがいるみたいで、年齢がいくつか知らないんですけど、本当に、下品で粗野で、耐えられないなと思う。父はその人の名前口を割らないし、「心配してくれた」って言うんですけど、私その人は自分の頭で考えてないから馬鹿だと思うし、非常に無配慮なので、極めて愚かだなと思う。軽蔑する。
映画の中で、藤野家の母親の妹が出てくるのですが、娘を閉じ込めていた姉も、妹から見ると「すごくいい姉、いつも旅行に行くくらい仲良し」と語られていて、人にはいろんな面があるなと思わされてしまった。その妹が「娘さんのことは、ねぇ、勉強頑張ってるなと思ってたけど…。まあ、親が?そうした方がいいってことで家に居させたのなら、それがいいってことだったんじゃない?」と言っていてびっくりした。親が必ずしもベストな答えを出せるわけないのに、思考停止している。
そうやって、人の子供の投稿を親にちくってみたり、親は子供のことをわかってるとか、自分の中のよくわからんルールで動いていて、バカばかりで反吐がでる。自分がどうありたいかとか考えたことないのかな?私もできてるかわからないし、映画と自分語りが混ざった文章をもう7500字も書いてるのだけど。
本当は綺麗な文章を紡いで、綺麗でいたいのに、綺麗じゃないところばかり見つめて書いてしまう。もう少ししたら、好きなものとか愛しいものの話もしたい。もっともっと綺麗になりたいのに、いつも怒っている。もっともっと、私はだいじにされたいし、ひとのことをだいじにしたいんだよね。なんでなの?どうすればよかった?、てか、これからどうする?
私は、絶対に逃げないと決めている。